30代前半、毎晩のように新宿界隈にくり出して呑んでいたころ、馴染みのバーが何軒かあった。
その店のご主人に「ちょっと店を空けるので、しばらくカウンターの中に入って店番してください」と頼まれ、いそいそと給仕のまねごとをしたことがある。
中に入って店内の客席を見渡して驚いた。目の前の光景がマジックミラー越しに覗いて見ているようだったのだ。呑み友だちの会話をまるで盗み聴きしているようでもあり、ドキリとした。
 1968年、カウンター・バー「よつやこくている」(以下、「こくている」と表記)は、かつて花街として栄えた四谷・荒木町に店を構えた。
「こくている」のご主人、矢壁さんは先代の引退を機に、1973年4月に店を引き継いだ。この4月で店主として、31回目の春を迎える。
浮き沈みの激しいこの界隈では老舗として知られ、良心的な価格とマスター(ぼくは矢壁さんを店では「マスター」と呼んでいるので、以下「マスター」と表記)の人柄で、今も多くの客をひきつけている。
 ぼくが仕事場を四谷三丁目に構えたのは1981年。「こくている」から数分の距離にあり、このころは毎晩のように通っていたが、しばしば満員で入れなかった。時代はバブルに向かって助走を始めていた。皆元気だったし若かった。毎日がお祭り騒ぎだった。
 先日、サントリー・お客様センターにウィスキーの小売価格の変遷を問い合わせたところ、丁寧な答えをいただいた。これをグラフ化したら、ピタリとバブル以前、バブルの頂点、バブル以降の経済動向に重なることに気づいた。
ぼくたちはこの山を登り、また降りてきたのだ。ぼくにとっては刺激的で面白くもあったが、やがてかなりしんどい行程になった。(まだ終わったわけではないが)
マスターにはこの行程がどう映ったのか。店を始めるまで、そして店主となりカウンターの中から見た光景を語っていただいた。

●後記
「こくている」のマスター、矢壁涼さんは2008年2月に逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。



(矢壁涼=マスター) インタビュー:(ペリカン)


矢壁涼(やかべすずむ)って名前、日本にひとつしかないのでは?珍しい、そしてかっこいい。九州は佐賀県出身ですよね。
矢壁姓は佐賀県の肥前麓(ひぜんふもと)に多いです。ぼくの生まれは福岡県久留米市。その後実家が筑後川を挟んで向かいの佐賀県北茂安というところへ引っ越して、育ちが佐賀県になります。
ぼくの名付け親はおじいさん。結構もの知りで粋な人だったんだねえ。いとこに「求
(もとむ)」「京江(きょうえ)」と名付けている。弟は「秀和(ひでかず)」・・・
これはフツーですねえ。
弟は公務員だった父が名付けています。(笑)
高校を卒業して、1962年、地元の日本ゴムに就職したということですが。
四人兄弟の長男だけど、父は公務員だから「家を継がなきゃ」ということはなかった。「いずれ水商売を」というイメージもまだないね。
まずは、地場産業に真面目に就職?
日本ゴムの社長の親族に「ブリジストン」の経営者がいる。石橋家と言って、あの辺は石橋家の地元なんだね。
ははあ、石橋一族はゴムをベースに発展したんだ。
日本ゴムは「あさひ靴」のブランドで有名です。
(注:98年に倒産。現在「アサヒコーポレーション」と社名を変えて再建中)
ぼくは久留米工場のゴムのりを作る部署に配属された。そののりで地下足袋の靴底のゴムと本体を張り付ける。組み立てラインの女の子がゴムのりを取りに来るのよ。先輩がのりを渡しながら、軽口をたたいてお尻をなでたりね・・・
随分くだけてますねえ。(笑)
高校出たてで、そんなの見せつけられたら、ポッって顔赤くなっちゃうよ。でも、その先輩がいなくなったら、ぼくも似たようなことしていたけどね。(笑)
1年半勤めて、64年11月上京。東京オリンピックの年です。
ぼくは、そのオリンピックの聖火ランナーを勤めています。
エッ!地元でですか?
普通は陸上部の選手とか、運動部の人が選ばれるんだけど、「働く人にも希望を」ということで、青年団に所属していたぼくが「働く人」を代表して選ばれた。まあ、「地場産業から」ということもあったかも知れない。走った距離は1キロもなかったなあ。
前半生のハイライトですね。それが10月。で、11月に上京。区切りがいいなあ。(笑)
会社の山登りの同好会に属していて、その先輩が東京に先に出ていった。ぼくはその先輩に「東京に出たい!」とよく言っていたんですよ。その人のつてで国鉄品川寮の給食センターにまかないとして入ることができた。住み込みでね。
現在のJRですね。
400人の国鉄職員の食事を10人ほどのスタッフで作っていた。ぼくはもっぱら下働きだけど、おやじさんについて築地に仕入れに行っていました。これが後になって役立った。
日本ゴムを辞めるころには、料理の世界で身を立てようと思っていたんですね。
ばくぜんと、「寿司職人になれたら・・・」とは思っていたけど。一人前になるまで10年かかるって言われていたんで、それでは長すぎる・・・
早く独立して店を持ちたい、ということですね。
そうするには、どうすれば良いか考えたし、友だちに聞いたりして、バーテンダーになればお店を早く持てるんではないかと。66年4月、新宿にある東京バーテンダースクール
(現、新宿調理師専門学校)の夜間に2ヶ月通うことにしたんです。
バーテンダーになるには資格がいるんですか?
調理師免状のような資格が必要ではないです。授業ではカクテルの作り方をひと通り教わります。英語の単語帳のようなものに書いて憶えましたよ。最後に簡単なつまみの作り方とかね。実習は歌舞伎町のコンパ形式のバーだったな。
憶えるアイテム数と、それにかかる時間が少なくて済むということですね。
和食の料理人になろうとしたら、四季折々の食材と調理法を憶えなきゃ・・・その組み合わせは多いでしょ。
とはいっても、2ヶ月でお店が持てるわけではない。
そのあと、助手をしながら本科の6ヶ月コースも通ったんです。
助手ということは、見込まれたんですね。
そうかなあ。でも、助手に着いていた先生に「こくている」を紹介されたから、縁があったんだね。
それはまだ先の話ですよね。
そう、まだ品川寮に住み込みで働いていたし。67年から68年にかけて10ヶ月ほど、北海道のバーでアルバイトもしている。
北海道?!
先輩が店を開くから手伝ってくれって言われてね。札幌と旭川をつなぐ途中にある滝川と言うところです。
随分、ひなびた所に行ったんですねえ。
そんなことはない。当時はまだ炭坑が元気だったし、岩見沢の自衛隊基地もそばにあって活気があった。
荒くれ男の巣窟ですか?
はでなケンカがあちこちで、ということはなかったですよ。汚いけどとにかく活気があって、面白い町でした。20年後に旅行ついでに寄ったけどねえ、町はきれいになっていたのに、すっかりさびれていました。
「こくている」との出会いはその後ですね。
北海道からまた、品川寮に舞い戻った。68年8月に。
出たり入ったり・・・いい加減ですねえ。(笑)
そういう時代だったんですよ。
いい時代だったんですよね。(笑)
その年の暮れに、バーテンダースクールの先生に「東京に帰りました」と、報告しに行ったら「人手が足りなくて困っている店がある。アルバイトにいってみるか?」って。
それが「こくている」だったんだ。
一日だけのアルバイトのつもりだったんだけど、終わって帰りぎわに「明日もお願いね」ってママさんに言われて・・・以来、35年ですよ。(笑)

以下次号(毎週月曜5週連続更新)


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よつやこくている
地下鉄丸の内線 四谷三丁目駅下車徒歩2分
電話 03-3357-3845

 

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